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場の、今を見、古に学び、先を考えます、申します

統計に傾倒―密集都市東京003―

 2020月1日の推計人口が約1395万人の東京都、約882万人の大阪府の人口が、一体いつからこんなことになっていたのか、という話きです。現住人口の基本調査である国勢調査人口について、webでさぐれるだけ探ってみましょう。

 

 国勢調査総務省統計局が所管しています。含めて、同局は政府統計のハブ(自転車の車輪の中央部分)の役割を果たしていて、「政府統計の総合窓口 e-Stat 統計で見る日本」というサイトを運営し、国の統計を統括しています。

https://www.e-stat.go.jp/

 トップ画面で、国勢調査と入力してもいいですが、順よく見ていくならば、統計データを探す→すべて→左側のメニューの統計分野(大分類)で絞込み→人口・世帯→国勢調査で、過去から現在までの国勢調査データに至りました。

 

 さて、ここから、一つ一つ年をたどっていくのが王道ですが、まあ大変ですね。私は未だに学生時代に国勢調査の本をコピーした紙を保管しています。ここから一つ一つデータを拾って表にしたのですね、手書きで。当然ミスも多かったわけです。

 指導の先生に、確認したのか、と聞かれると、やったはずです、と答えておきます。ミスがあった場合、確認していなかったことがばれたらまずいですから。

 え!?確認したんですけどねえ・・・。いつの時代でも、言い訳は同じです(経験教員にはバレます)。

 

 おほん。

 さて、上から二つ目の「都道府県・市区町村別統計表(国勢調査」、これはくさいですね。くさいもなにも、都道府県って書いてあるし。では見てみましょう。平成12年から27年、つまり、2000年から2015年の表が載っています。2015年を開いてみましょう。エクセルが起動するはずです。日本、北海道、北海道の市区町村ごとの人口が表示されました。ということで、この表で東京都と大阪府を見れば、2015年のそれぞれの人口がわかります。でも、まだ手間ですね。

 

 今時です。都道府県単位の人口であれば、総務省では一発で見られるようにしてあるのです。「事例列データ」をご覧ください。1920(大正9)年から、都道府県別の男女別人口が掲載されているのです。コピーマシンとなっていた私の学生時代に比べて、なんと便利すぎる!

 

 1920年の東京の人口を見てみましょう。3,699,428人ですね。2020年3月の3分の1にも満たない数です。大阪府は2,587,847人で、東京の約6割の比率です。現在の比率は約63%で、似通っていますね。さて、この当時の人口第3位は、愛知県?神奈川県?さあ推測してみて、理由も考えてみましょう。「東京都」ではなく「東京」と記したのにはちょっと理由があります。この時、東京「都」はなかったのですね。それは後ほど。

 

 1920年の3,699,428から、1925年4,485,144、1930年 5,408,678、1935年6,369,919、1940年7,354,971、1945年3,488,284、1950年6,277,500と推移しました。

 

 1920~25年の間には、1923年に関東大震災があり、多くの人が亡くなる甚大な被害が生じましたが、1920~1925年にかけて大幅に人口が増加しましたね。映画『風立ちぬ』では、震災2年後に主人公次郎を訪ねてきた妹の加代が、東京の復興ぶりに驚いています。私は東京の地理には疎いですし、関東大震災と地域の痕跡についてもほとんど知識がありませんが、移入した人口も相まって、すさまじい復興を遂げた可能性があります。

 

 第二次世界大戦終戦の1945年に人口は減少していますが、多くの人が疎開していました。1950年には急速に人口が回復しました。疎開先から戻ってきた人、各地から移入してきた人、兵役から戻ってくることができた人、そして生まれた人、とにかくたくさんの人がこの増加人口に含まれていることでしょう。

 

 なお、東京は1943年まで東京府でした。東京市もあって、麹町区とか神田区とか牛込区なんて区があったのです。博物館に展示されている近代の小説家とかの郵便物で目にすることがありますよ。ところが、太平洋戦争中のどさくさに紛れて、府と市が合体して東京都になってしまいました。戦争保持のためだったのですね。現在、大阪都構想が叫ばれていて、府県と市のバトルは明治時代から起きていることから、良いか悪いかは別にしても、まあ無駄があるという点はわからなくはないのですが、もし東京都を引き合いに出すならば、それはちょっと納得がいきません。東京都制が成立したのにはこうした経緯があるからです。

 

 さて、1950年の6,277,500からは、1955年8,037,084、1960年9,683,802、1965年10,869,244、1970年11,408,071、1975年11,673,554、1980年11,618,281、1985年11,829,363、1990年11,855,563、1995年11,773,605、2000年12,064,101、2005年12,576,601、2010年13,159,388、2015年13,515,271でした。

 

 第二次世界大戦後の東京都は、1970年までに一気に増加しました。1973年には第1次オイルショックがおき、日本は不況に見舞われます。東京都では、人口増加の勢いが緩くはなったものの、それ以降も減少することなく、増加を続けていることがわかります。

 

 一方大阪府は、1920年2,587,847、1925年3,059,502、1930年3,540,017人、1935年4,297,174、1940年4,792,966人、1945年2,800,958、1950年3,857,047と推移しました。

 

 近代の大阪府は、東京府と比べると人口は少なかったのですね。それでも、日本最大の阪神工業地帯を抱え、フル回転で工業化が進みました。大阪府の人口増加はそれを大きく反映したものといえるでしょう。終戦の1945年、多くの人が疎開していた様子がわかります。

 

 1950年の3,857,047以降は、1955年4,618,308、1960年5,504,746、1965年6,657,189、1970年7,620,480、1975年8,278,925、1980年8,473,446、1985年8,668,095、1990年8,734,516、1995年8,797,268、2000年8,805,081、2005年8,817,166、2010年8,865,245、2015年8,839,469でした。

 

 第二次世界大戦後、1940年のレベルに回復するのには、東京都に比べて時間を要しました。東京都ほどの勢いはなかったことがわかります。それでも、二次世界大戦後の大阪府は、大幅に人口が増加しました。しかし、1975年で頭打ちとなって、それ以降はゆっくりと増加してきています。とはいえ、2010年から2015年にかけては減少に転じてしまいました。

 

 1973年のオイルショック以降も人口増加が続き、バブル崩壊後も増加を続けて一極集中と評される東京都と、人口増加が横ばいに転じた大阪府の違いがはっきりしました。

  もう一つのポイントは、東京都も大阪府も、第二次世界大戦前に、一定程度人口が増加していたことです。

 

 東京都と大阪府の人口の話、もう少し続けたいと思います。

 

 そうそう、1920年道府県人口3位は?北海道で2,359,183人でした、4位が兵庫県で2,301,799人、5位が福岡県で2,188,249人、6位が愛知県で2,089,762人で、7位が新潟県で1,776,474人、8位が長野県で1,562,722人、9位が静岡県で1,550,387人、10位が広島県で1,541,905人でした。移民が集中した北海道の存在感が大きかったのですね。面積も大きかったので、多くの人があちこちでさまざまな仕事に就いていました。矢嶋の先祖もすでに北海道に渡っていて、仕事を得ていました。

 

 日本の人口が5596万人であった1920年産業革命が進展して工業化が進んだ東京や大阪、神戸の存在感が大きくなっていたと考えられます。しかし、京浜工業地帯の中核である東京府阪神工業地帯を有する大阪府兵庫県の、周辺に位置する県は上位に入ってきません。地方の中心的存在の県や(当たり前と言えば当たり前ですが)面積の広い県が大きな人口を有していたと言えます。周辺県を含めて、東京圏、京阪神圏という巨大都市圏を成している現代とは様相が異なっていました。これについては、先々考えましょう。

 

  そもそも国勢調査が始まったのは、大正9年、西暦で言うと1920年です。世界基準の調査実施の要請を受け、本当はもっと前から始める準備をしていたものの、2度の戦争で延期されました。詳しく述べますと・・・。いやいや、今時の日本政府のこと、国勢調査の歴史を伝えるサイトが作られています。講談風です。今年で100周年なのですね。

https://www.stat.go.jp/data/kokusei/2020/ayu

 

果たして今年無事に調査できるのでしょうか。実施日である10月1日のことは、関係者以外は心配していないことでしょう。